足利尊氏の執政にして幕府設立の立役者~高師直敗北の時~
高師直は足利尊氏に側近として仕えた武将であった。その才能は素晴らしく、2度15年間にわたる室町幕府執事としての行政活動であり、室町幕府草創期の政治機構・法体系を整えた。また武将としても兄弟の師泰と共に建武の乱や南北朝の内乱で活躍し、石津の戦い延元3 /暦応元(1338)年では北畠顕家を、四條畷の戦い正平3 /貞和4(1348)年では南朝の畿内戦力を統率する楠木正行を討ち、武名と権勢を高めた。しかし、革新的な政策と急速な勢力拡大は、やがて尊氏の弟である事実上の幕府最高指導者である保守派の足利直義との対立を招くのでした。正平4/貞和5(1349)年閏6月、直義は側近の上杉重能や畠山直宗らの進言を容れて、師直の悪行の数々を挙げてその執事職を免じることを尊氏に迫ります。これを受けて、尊氏は師直の甥の師世が執事として立てるが、直義側はこれを機に師直の徹底的排除に乗り出します。直義が師直を討とうとしている噂が流れる中、同年8月12日、師直は挙兵し、意表を衝かれた直義は尊氏の屋敷に逃げ込みますが、師直方の軍勢は尊氏屋敷まで包囲するのでした。やがて直義が出家して幕政からは退くことを条件に師直は包囲を解くことに同意しました。しかし足利直冬(尊氏の息子にて、直義の養子)が養父である直義を助けるべく、中国地方の軍勢を集めて上洛を目指すが失敗し九州へ落ち延びます。これを討伐すべく尊氏率いる幕府軍が、京より出兵これを好機とみた直義が河内石川城にて挙兵しました(観応の擾乱)。奇しくも足利兄弟の内紛へと発展して戦は、播磨光明寺合戦及びの摂津打出浜の戦いへと繋がります。