第二次長州征討【四境戦争】②
元治元(1864)年7月19日の「禁門の変」によって、長州藩は朝敵となりました。7月23日、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発した。幕府は長州藩主・毛利敬親と養嗣子の定広(後の元徳)に京都で禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩および西国諸藩から征長軍を編成した。しかし、長州藩への具体的な処罰を決定しないかった為、独自に動いた薩摩藩の仲介のもと、三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放、藩主父子からの謝罪文書の提出山口城破却という長州藩にとっては寛大な処置として決着しました(第一次長州征伐)。しかし、長州藩内で高杉晋作が挙兵し、長州藩内の佐幕派である長州俗論派を失脚に追い込む事に成功。そして軍備増強に乗り出しました。この動きを察知した幕府は再度の長州征伐を決意し、慶応2年(1866年)6月5日をもって諸方面から進撃すると決定しました(第二次長州征伐)。この戦いは大島口・芸州口・石州口・小倉口で行われた為、山口県では「四境戦争」と呼ばれています。6月19日に大島口と芸州口にスポットをあてたツアーの後編になります。今回のツアーでは、小倉口の戦いと石州口の戦いにスポットをあてて見学します。