「坂東に独立国家建設へ」
平将門は、下総国佐倉に所領を持ち鎮守府将軍を務め武家平氏の実質的な祖の一人とされる平良将の子です。15~16歳のころ平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平と主従関係を結びました。12年ほど在京しますが良将が早世したため帰郷。すると父の所領の多くが伯父の国香、良兼に横領されてしまっていたため、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培いました。この対立から「坂東平氏一族の争い」が勃発。国香の妻の父が源護であるため、源護の息子である扶、隆、繁も反将門方として参戦しました。承平5年(935年)2月、源扶、隆、繁の3兄弟は常陸国野本に陣をしいて将門を待ち伏せ、合戦となりましたが、将門は源3兄弟を破り、討ち取ります。更に将門は伯父の国香の館がある常陸国石田にも火をかけ、国香をも討ち取ってしまいました。国香の長子貞盛は京に上り出仕して左馬允になっていましたが、この報を聞いて帰郷。また自身の息子を討ち取られた源護は婿の平良正とその兄である平良兼を頼り、新たに反将門派を形成したのでした。一度は朝廷の仲介で和睦しますが再び決裂し、最終的には反将門派が敗北。この内乱は落ち着きをみせました。天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王と介の源経基(清和源氏の祖)が足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥りました。将門が両者の調停に乗り出し和解させましたが、武芝の兵が経基の陣営を包囲したため、経基は京に逃げます。経基は朝廷に将門、興世王、武芝の謀反を訴えましたが、将門の主人であり時の太政大臣であった藤原忠平により逆に誣告の罪で罰せられました。これ以降、興世王は将門を頼ります。そのころ、常陸国の住人で常陸介藤原維幾と対立していた藤原玄明も将門の庇護を求めてきました。将門は玄明の引き渡しを求める維幾と武力衝突にいたり、維幾を降して常陸国府を占拠。この行為は、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまい、これを機に将門は兵を挙げ関東全域を手中に治めたのでした。