日本陸軍の創始者
大村益次郎は周防国吉敷郡に村医村田孝益の長男として生まれました。防府にてシーボルトの弟子梅田幽斎に蘭方医学・蘭学を学び、豊後国日田にて広瀬淡窓の私塾咸宜園で漢籍・算術・習字など学ぶ。また大阪に出て緒方洪庵の適塾で学びました。黒船が来航すると蘭学者の知識が求められる時代となり、宇和島藩の要請で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけます。その後、萩藩(長州藩)において兵学校教授役となり、山口明倫館での西洋兵学の講義を行いました。各方面でその才能を生かし、第二次長州征伐では石州口方面の実戦指揮を担当。戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となりました。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされました。益次郎は、「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である」と早々に西に備えるべきだと方針を定め、その備えとして“軍都大阪構想”を打ち出すのでした。今回は、大村益次郎が襲撃された京都、そして大阪へと訪れます。