〜山記者の目〜 2019年07月17日 小野博宣
関東/八ヶ岳(東京毎日)ステップ⑥八ヶ岳・硫黄岳(2019)
風速は10㍍以上あっただろうか。重いザックが強風に振られる。横殴りの雨がレインウェアを叩(たた)き続ける。立っているのも一苦労だ。女性のお客様の顔に不安の影が宿るのが見て取れた。私は先頭を歩く上村絵美ガイドに駆け寄り、「ここで(登山を)中止にしましょう。硫黄岳(2774㍍・長野県)の山頂に行くのは難しい」と提案した。上村ガイドも少しの間を置いて、うなずいてくれた。お客様を安全な窪地に誘導した上村ガイドは登頂を断念する旨を伝え、「富士山でも強風に合うことがあります。その時は姿勢を低くして耐風姿勢を取ってください」とアドバイスした。その後、一行は来た道を戻り樹林帯に入った。山陰(やまかげ)に入ると、嘘のように風が止んだ。
強風と横殴りの雨となった赤岩の頭
我々は、山頂直下の稜線上にある赤岩の頭(かしら)と呼ばれる場所から引き返した。標高は2656㍍もある。今回の山行は、初心者や入門者が富士山を目指す「安心安全富士登山教室2019」のステップ6として開かれた。目的は、2500㍍以上の標高に慣れることと、山小屋泊りを体験することにあった。
2019年7月上旬、参加者22人は登山口のひとつ、美濃戸口(1490㍍)でバスを降りた。ここから標高2220㍍の山小屋・赤岳鉱泉へ向かう。砂利道の林道を歩き、沢沿いの登山道を詰めてゆく。概ね緩やかな登りが続くのだが、3時間以上は歩かねばならない。そろそろ足に疲れを感じ始めたころ、荒々しい岩峰を背にした赤岳鉱泉が見えた。「あそこに泊まるの?」「もう歩かないで済む」と安どの声が漏れた。
荒々しい岩峰を背景に建つ赤岳鉱泉
1959年に開業した赤岳鉱泉は、八ケ岳登山の拠点となってきた。建物の外観は工事現場の宿舎のようにも見えるが、心のこもったもてなしには定評がある。館内は清潔で、乾燥室、浴場と施設も申し分ない。快適に過ごせる山小屋の一つだ。
山小屋に初めて宿泊する参加者は、大部屋にずらりと並んだ布団に驚いた様子だ。私は3人部屋に案内されたが、いずれも布団は1人にひとつある。旅館やホテルでは当たり前のことだが、山小屋では一畳に2~3人が横になることはままある。
ザックを下ろし、参加者の皆さんとビールを酌み交わした。外のテラス席は涼しく、アルコールがなおさらおいしく感じる。夕食までのこの時間が、山小屋では最も楽しい時間だ。携帯電話さえ通じない山奥で、胸襟(きょうきん)を開いて話し合う。非日常の醍醐味とでもいおうか。
ザックのパッキングを解説する上村ガイド(右端の女性)
夕食は、この山小屋の名物の一つだ。なんと鉄鍋に乗った分厚いステーキが提供される。大食堂に焼けた肉の香ばしいにおいが漂った。「こんなに大きなステーキは食べきれない」と女性がうれしそうに声をあげた。標高2200㍍のステーキとは、なんと贅沢(ぜいたく)なことか。夕食後、上村ガイドによるパッキング(ザックに荷物を詰めること)教室が開かれた。「一番下には軽くて山小屋に着くまで使わないものを入れます。真ん中にはもしかしたら使うもの、フリースやウインドブレーカーなどですね」「一番上にはよく取り出すものを入れておきます」。実践的な内容に皆はうなずいた。消灯は午後9時だ。こんなに早い時間に寝るのも山小屋ならではのことだろう。私は山小屋では熟睡してしまう。日頃の疲れを癒す貴重な時間になっている。
豪華な赤岳鉱泉の夕食。鉄鍋のステーキに、手前にはポトフがある。食べきれないほどの量だ
翌日は午前4時に起床した。まぜご飯の上に魚の切り身の甘露煮が乗った朝食弁当を食べ、5時には小屋を出発した。硫黄岳登頂は叶わなかったのだが、参加者は高所での強風という得難い体験をしたのではないだろうか。もちろん富士山でも強風の日はある。
さて、ステップ7・富士山はいよいよ8月に迫った。帰りのバスの中で、富士山に向けた注意として①太らないこと②風邪などを引かないこと③1カ月の間があるので、富士山の前に山登り・ハイキングなど自主トレーニングをしておくこと、などを伝えた。参加者の皆さんはどなたも真剣な表情だ。全員で登り、安全に下山する。私も改めてそう誓った。
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2019年7月7日登頂)
可憐な白い花をつけたオサバグサ
【富士山へ向けて14 質問箱1】これまでに各ステップの参加者から寄せられた質問を紹介し、答える形で直前の準備としたい。
Q 富士山の山小屋は大変混みあうと聞いています。私は眠れないかも……。(女性)
A 富士山の山小屋では、1畳に1・5~2人程度で寝ることになります。眠れないのは当然です。毎年富士山に登っている私も熟睡したことはありません。ウトウトしているような状態ですが、横になっているだけでも疲れが取れるのを感じます。また、山小屋の外を登山者が一晩中歩いています。足音やざわめきなどで眠りが妨げられる恐れもあります。そんな時のために耳栓(みみせん)やアイマスクがあると便利です。
キバナノコマノツメ。7月の八ヶ岳ではよく見られる
- 〜山記者の目〜プロフィール
- 【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
- 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長