〜山記者の目〜 2019年08月27日 小野博宣
関東・富士山ステップ⑥富士山(2019)
寒暖計がさしていたのは気温3度だった。富士山の標高約3590㍍地点でのことだ。「初心者のためのステップアップ 富士登山塾2019」の参加者26人は山小屋・胸突山荘前にいた。小屋前に設置された寒暖計の温度に「これは真冬だな」との声が周囲から聞こえた。山頂の風速予想は秒速20㍍だ。体感温度は氷点下だろう。小屋の前にいても強い風に時折吹かれる。一行の表情は疲れの色が濃かった。前日には小雨が降る中を7合目の山小屋まで歩き、2枚の布団で4人が寝る混み具合だった。出発も午前3時半と早く、ヘッドランプを点けての長時間歩行もほとんどの人が初めてだった。吹き付ける寒風に身も縮む。登山経験の浅い中高年にとって、体力を削り取られる過酷な状況と言わざるをえない。疲れ果てても当然だろう。
剣ヶ峰で最高の笑顔で記念撮影
だが、念願の富士山頂まで小1時間という距離に迫っていた。見上げれば、急斜面の向こうに山頂の白い鳥居が見えるではないか。高山宗則・登山ガイドが「さぁ、行きましょう」と声をかけると、皆は静かにうなずいた。岩場の急こう配を一歩一歩着実に登ってゆく。呼吸が乱れぬように、深呼吸をし、ろうそくを吹き消すように細く長く一気に息を吐く。かつては溶岩流だった岩石をひとつひとつ踏みしめるたびに、山頂は刻々と近づいていく。
山小屋での夕食風景。カレーライスをそろって食べた。時間は午後4時
午前7時59分、ついに一行は富士山頂の土を踏んだ。笑顔のハイタッチに「やったぁ」「ついに富士山の山頂に来た」と喜びが弾けた。握手と記念撮影がしばらく続いた。祝福するかのように、曇天は晴れ渡り、夏空が広がっていた。太平洋方面は雲海の渦だ。白と青のコントラストがまぶしい。風はやや強いものの、湿気が少なく汗ばんだ肌に心地いい。この後、19人が最高峰の剣ケ峰(3776㍍)を踏むことができた。
岩だらけの登山道を歩む富士登山塾の一行
富士登山の核心部(登山用語で最も危険な場所をさす)は下山時にある。体力と集中力の低下により、体調不良、歩行困難、転倒などを引き起こす。今回は全員が登頂し、概ね無事に下山することができた。意志の強さと努力のたまものだろう。
剣ヶ峰の急こう配を登る
2月の机上講座から始まり、関西の低山、四国や中国地方の高峰、北アルプスの険峻を月ごとに歩いてきた。仕事の日程を調整したり、家族の理解を得たりしながら実技講座に参加した人は多いだろう。ある女性会社員は「(平日の参加を)理解してくれた上司に感謝したい」と思いを口にした。富士登山塾は体力や山登りの技術を進歩させただけでなく、周囲への感謝をはぐくむ旅だったといえよう。
山頂で高山ガイドとハイタッチする
実は今回の山行は登頂すら危ぶまれた。登頂前日の8月23日の富士山頂の予報は雨と暴風、登頂日24日は霧と暴風だった。実際23日の午前中には、撤退するいくつものグループやツアーの団体とすれ違った。雨に打たれながらあきらめ顔で帰る人たちを見るのはつらい。高山ガイドをはじめとするスタッフは安全に登れる条件とタイミングを慎重に探り、ルートと宿泊する山小屋を臨機応変に変更した。霧と暴風の予想が一転して快晴となったのは、僥倖というほかないだろう。
大迫力の噴火口
2016年から始まった富士登山塾は、今年も多くの参加者とともに富士山に登ることができた。富士山に登頂できた方は登山の喜びを継続させていただければと願う。登れなかった方は来年の捲土重来(けんどちょうらい)を期してほしい。2020年夏も富士山でお会いしたい。【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】(2019年8月24日登頂)
富士宮口山頂から太平洋方面を望む。雄大な景色が広がる
- 〜山記者の目〜プロフィール
- 【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
- 1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長