毎日山の旅日記

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東北曇天の安達太良山

 東北新幹線の郡山駅付近から安達太良山(1700㍍)が遠望できる。この山は万葉集にもその名が見えるし、「日本百名山」(深田久弥著)や「花の百名山」(田中澄江著)でも取り上げられている。よく知られた山だ。筆者がこの山の名を知ったのは、高校時代のことだ。文芸部に所属し、顧問の先生に勧められて詩集「智恵子抄」(新潮文庫)を手にした。とりわけ印象に残ったのは、「あどけない話」と題された作品だった。

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

 病身の妻への温かなまなざしが感じられ、いつ読んでも心に染みる。詩と共に「阿多多羅山」という、優しげな語感の山名が私の心にうっすらとしまい込まれた。いつかは登ってみたいと思っていた、その山に出かける機会を得た。県をまたぐ移動が許された、最初の土日に安達太良山に出かけた。
安達太良山。 安達太良山。
 JR二本松駅を下りると、長沼(高村)智恵子さんの銅像が出迎えてくれた。若い日の智恵子さんという。安達太良山の山頂を左手で指さしている。思わず「ほんとの空」と口ずさんだ。空は曇りがちで、青空も安達太良山も見ることは叶わなかった。しかし、ほほえみを浮かべた智恵子像と対面できた。安達太良山に登る意欲もわいてきた。
JR二本松駅前の智恵子像。安達太良山を指さしている JR二本松駅前の智恵子像。安達太良山を指さしている
 タクシーに乗り、登山口のスキー場へ向かった。スキー場の駐車場には、100台近くの乗用車が停まっていた。「福島」ナンバーが目立つが、「神戸」ナンバーもあった。すべての車が登山者というわけではないだろうが、山に人出が戻りつつあることを実感した。  装備を整えて、まずは山小屋「くろがね小屋」を目指した。緩やかな登りの登山道をゆっくり歩いた。透明なギンリョウソウや可憐な白い花のツマトリソウが迎えてくれた。高度を上げると、カッコウの鳴き声も聞こえてきた。コースタイムが2時間のところを、3時間かけて山小屋に着いた。久しぶりの山歩きの同行者もいる。じっくりと歩きたい。
ギンリョウソウ。「銀竜草」と書き、別名「ユウレイタケ」とも呼ばれる。 ギンリョウソウ。「銀竜草」と書き、別名「ユウレイタケ」とも呼ばれる。
 荷物を解いて、温泉に入った。他に宿泊客はなく、貸し切りだ。硫黄臭が濃い、白濁した湯舟に体を沈めると、熱さに手先、足先がしびれた。伸びをすると、日ごろの憂さが湯に溶け出してゆく。山中の温泉に1人で入るぜいたく。なんと心地よいのだろう。
くろがね小屋の温泉。熱くて、疲労回復にはもってこいだ くろがね小屋の温泉。熱くて、疲労回復にはもってこいだ
 コロナウイルスの感染防止のために、寝具と食事はない。部屋にシュラフ(寝袋)とシュラフマットフを敷く。夕食はフリーズドライのリゾットに湯を入れて食べた。山小屋でシュラフを使うのも初経験であり、名物のカレーライスを食べられないのは残念なことだ。だが、これが「新しい山小屋の生活」になるのかもしれない。協力を惜しんではならない。
山小屋の居室にシュラフをしいた 山小屋の居室にシュラフをしいた
 翌日午前7時に、小屋を出発した。低い松林を登り詰めて行く。ところどころの樹林には、タニウツギの赤い花や、イワカガミ、ウラジロヨウラクの桃色の花を見ることができた。ウラジロヨウラクは、「花の百名山」ではツリガネツツジの名前で紹介されている。釣鐘型の小さな花が風に揺れていた。
ウラジロヨウラク ウラジロヨウラク
 月面のような峰の辻からいったん下り、急斜面を登り返す。空は曇り、願っていた青空は望めそうもない。山頂のある稜線にたどりついた。広々として気持ちがいい。眼前には、ぽっこりとした岩山があった。これが安達太良山の山頂だ。ザックを置き、岩場に取り掛かる。慎重に登り、ものの5分で登頂した。残念ながら、蒼天には恵まれなかった。展望もない。しかし、「智恵子抄」に読まれた山に登れたのだ。それだけで満足だ。また訪れたい。
安達太良山山頂。曇天で「ほんとの空」は見られなかった 安達太良山山頂。曇天で「ほんとの空」は見られなかった
 下りは、ロープウェイ山頂駅を経由してスキー場に戻る道をたどった。狭い登山道でおびただしい老若男女とすれ違った。100人以上はいたのではないだろうか。ロープウェイで登ってきたようだ。登る人たちのために下山の私たちが道を譲った。このためなかなか前に進めない。しかし、うれしいことだ。長い外出自粛を経て、登山を楽しめるようになったのだ。智恵子さんはこの笑顔の人々を見たら、なんと言うだろうか。「ほんとの空を見てほしい」などと願うのだろうか。そんなことを想像しながら歩むのも楽しいものだ。【日本山岳ガイド協会公認登山ガイド、毎日新聞元編集委員・小野博宣】(2020年6月20~21日)
【参考文献】智恵子抄 髙村光太郎著 新潮文庫 / 日本百名山 深田久弥著 新潮文庫 / 花の百名山 田中澄江著 文春文庫
荒涼とした峰の辻 荒涼とした峰の辻
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〜山記者の目〜プロフィール
【毎日新聞元編集委員、日本山岳ガイド協会認定登山ガイド・小野博宣】
1985年毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。毎日新聞社の山岳部「毎日新聞山の会」会長

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